戦時下の雅楽ー昭和17年発行『雅楽』と『撃物総譜』、昭和18年の舞楽会を手掛かりに

以前に古書店で手に入れた、多忠龍著『雅楽』を久しぶりに手にとってみました。
紙は茶色く変色し、製本が壊れそうなのでゆっくり気をつけながらページをめくります。発行は昭和17年。

著者の多忠龍(おおのただたつ)氏は、大正10年宮内省楽部楽長となり13年退官、昭和12年には帝国芸術院会員となられた方です。
慶応元年(1865)京都生まれで、7歳の時、明治5年(1872)に、ロシアの皇太子の前で迦陵頻を舞うため、京都から東京までを籠に乗ったり歩いたりしながら東上。退官後も昭和19年まで楽部の嘱託を務め、同年12月22日79歳で他界されました。
『雅楽』に記されているところによると、78歳の今(昭和17年)も毎日役所(楽部)に通って唱歌を教え、昭和15年と16年には北海道の数か所を回って講習会で教授し、今度は樺太にも来てくれと言われている、とのこと。その元気な行動力に驚きます。

この本は著者が喜寿を迎えたお祝いとして、息子の多忠胤氏が発案して企画されたのだそうです。
あとがきには、清水俊二氏が1週に1回ずつ2か月間お宅に通ってお話を聞き、それを速記者が記録し、確認しながら編集したとありますが、忠龍氏の軽妙洒脱なしゃべり口そのままを生かした文章なので、まるで昔語りを聞いているような気分で読めます。

なにしろ冒頭が「強いですねエ。まったく強いぢやありませんか。…日本といふくには、なんて強いくになんだろう」で始まり、樺太だろうが満州だろうが昭南島(注:シンガポール)だろうが、請われればどこへでも教えにいきますよ、という元気の良さ。
編集者が始めて多家を訪れたのは、昭和17年3月で、発行は同年12月。太平洋戦争開戦直後の空気が伝わってきます。

偶然ですが、近頃私が、雅楽の打物譜作成のために参照している、山井基清著『撃物総譜』も、昭和17年発行です。これは昭和17~18年に発行された『楽道撰書』の第一巻で、昭和39年に日本雅楽会から発行され、平成11年に再発行された『雅楽打物総譜』の元となった譜です。

こうした本が次々に発行された昭和17年という時代の、雅楽を取り巻く空気を感じたくて、いろいろ調べてみました。

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『撃物総譜』という楽譜は、江戸時代までの打物譜や「明治撰定譜」とは全く異なる記譜法です。それまでの譜はすべてパート譜であり、細かな拍は大体の位置で知るしかなかったのですが、『撃物総譜』はマス目により拍を明確に示し、3つの打楽器の総譜(スコア)として記された斬新な楽譜となっています。この記譜法を編み出したのは、山井基清氏(明治18年(1885)~昭和45年(1970))です。

山井基清氏は明治31年3月に採用された10名の雅楽生の一人で、笛とヴァイオリンを担当。大正11年(1922)37歳の時に、芝忠重とともにドイツのベルリンに留学し、指揮とバイオリンを学びます。楽部から海外留学したのはこの時のお2人のみだといいます。大正3年3月の「雅楽練習所職制」では外国語の先生として山井基清の名が記されていますので(塚原康子『明治国家と雅楽』229頁)、外国語に堪能だったのでしょう。

多忠龍著『雅楽』にはこの留学の裏話が書かれていて、実は最初に留学を願い出ていたのは、多忠龍氏だったのだといいます。どうしても本物のクラリネットの音が聞きたい一心で、留学したいと忠龍氏が式部職主事の西園寺八郎氏に願い出たところ、留学話は進んだものの、当の忠龍氏は楽長となってしまったので留学できず、代わりに山井基清氏と、多忠龍氏の弟である芝忠重氏の2人が行くことになったのだそうです。

帰国してから、芝忠重氏は昭和3年~9年に、山井基清は昭和9年~11年に楽部の洋楽の楽長を務めます。
山井基清氏は学究肌で、昭和天皇の大礼後の昭和5年(1930)に、楽部が催馬楽の「美作」「田中井戸」「大芹」「老鼠」を再興した時の中心となっていました。『楽道選書』には『撃物総譜』のほかに基清氏の著した『舞楽吹要訣』(昭和18年(1943))も収録されています。
昭和11年(1936)楽部退官後は、大阪の相愛女学校で教鞭をとり、昭和14(1939)~16(1941)まで同校音楽科長。昭和36年(1961)には『風俗訳譜』、昭和41年(1966)『催馬楽訳譜』を著し、岩波書店から出版されています。

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さて、山井基清著『撃物総譜』は昭和17年5月発行、多忠龍著『雅楽』は昭和17年12月発行。ともに昭和17年に発行されているだけあって、本の紙質こそ良くはありませんが、太平洋戦争初期の余裕と勢いを感じさせます。

この年、昭和17年(1942)2月18日には、楽部にてシンガポール陥落祝賀会が行われ、楽長・多忠朝による新作舞楽「昭和楽」や久米舞などが演じられました。
「満州といひ、昭南島といひ、それから、仏印、マレー、印度、みんな、はじめ雅楽を日本につたへた国なのだし、むかふではとっくのむかしに滅びているので、どうだ、諸君の先祖の音楽が日本にはちゃんと伝へてあるのだぞ、と、あっちへ行って雅楽を聴かせてやるのも、日本のくにの勢ひを教へてやることになるぢゃありませんか。」と、多忠龍が『雅楽』(375頁)に書いているような、勢いがあったのです。

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翌年、昭和18年4月27日には、楽部にて管絃と舞楽が関係者200名余の前で上演されました。
管絃の曲目は、平調音取、催馬楽 伊勢の海、林歌、陪臚、舞楽は振鉾二節、輪台・青海波、白濱でした。この舞楽会の様子は、芝祐泰氏が「舞楽輪台青海波之記」として昭和35年に書き残されています。

この舞楽会で「輪台」の三臈を舞ったのが『撃物総譜』著者である山井基清氏の子、山井清雄氏でした。清雄氏は『楽家類聚』に当時の様子を書いていらっしゃいます。
「楽生の頃…木下君(注:辻利男)と共に左舞を習いましたが、…来年4月に兵隊に入ったらこんなことを覚えていられるわけがないと、さっぱり覚える気がないのです。できないものだから、先生は憮然としています。」

山井清雄氏は昭和18年に楽師となってすぐに「輪台」を舞われているので、もしかしたら先生を憮然とさせながら習っていたのはこの曲だったかもしれません。清雄氏は兵役猶予で入隊が1年伸びて19年に入隊だったので、この時「輪台」を舞えましたが、一緒に舞を習った同期の木下(辻)利男氏は先に入隊されていたのでしょうか、昭和18年4月の舞楽会の配役にはお名前がありません。

山井清雄氏にはさらに3人の同期生がいました。そのお名前は「舞楽輪台青海波之記」の配役に記されています。
岡実氏は「輪台」の二臈舞人。多忠雅氏は「白浜」の四臈舞人。薗広親氏は管絃で篳篥を吹いています。

これらの3人はこの演奏会の後、きっと清雄氏より早く入隊されたのでしょう。
岡実氏はフィリピンで戦死、多忠雅氏は終戦半年後にシベリアで戦死、薗広親は沖縄にて戦死されたといいます。
南方やシベリアで、また負傷して戦後に亡くなった楽師の方は合わせて8名いらしたそうです。皆20代でした。
(『楽家類聚』p232、『雅楽の<近代>と<現代>』p271 他に19歳で空襲で亡くなった方もいらっしゃいます。)

山井清雄氏は外地に送られる前に終戦を迎え、木下(辻)利男氏も生き残りましたが、戦後、楽部人員が半分に削減される中、このお2人も楽部を去ることになります。
清雄氏は東宝交響楽団(後の東京交響楽団)でヴァイオリンを弾き、木下利男氏はNHK交響楽団でトロンボーンを演奏するようになり、戦後の日本の洋楽を牽引する役割を果たすのです。笛の名家である大神姓山井家の楽道は絶えることになりました。

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また一方、『雅楽』著者である多忠龍氏は昭和19年12月22日に死去、6人の息子のうち唯一楽道を継いだ忠紀(ただとし)氏(明治31年(1898)~昭和20年(1945))も、1年後の昭和20年12月25日に楽長にて死去されています。忠紀氏が亡くなられた時、その息子である多忠麿氏(昭和8年(1933)~平成6年(1994年))はまだ12歳でした。

『雅楽のデザイン』(小学館)に多忠麿氏は、祖父と父の思い出を綴っていらっしゃいますので拾い書きします。
6歳の6月6日に稽古始めの儀式があり、その2、3日後から祖父(注:多忠龍氏)の前に正座をして神楽歌の稽古が始まったこと、最初は「早歌」を祖父の弾く和琴に合わせて歌ったこと、小学校へ入ったときから師匠が父に代わって毎朝登校前に唱歌を歌ったこと、戦争に突入すると父が家へ帰らない日が度重なり、母に「宮城の御守りをしているのですよ」と言われたこと。祖父が亡くなり、1年後に父が亡くなった後、教育係は叔母輝子刀自に代わって厳しく教育されたこと。

昭和27年に楽生を卒業したものの、嬉しい気持ちを報告する祖父も父もいないのがやはり寂しかった、と記してらっしゃいますが、楽道が次の世代に引継がれたことに、忠龍氏も忠紀氏も遥か遠い所でお喜びだったに違いありません。

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さて、昭和18年の4月27日の舞楽会の記録に戻ります。
この資料を私が知ったのは、昨年(1999年)5月に青海波を伶楽舎雅楽コンサートno.35で上演するにあたり、1月に芝祐靖先生のお宅を訪ねていくつかの資料をお出しいただいた時でした。その折は、「輪台・青海波」が楽部ではこの時どのような次第で上演されたのか、ということにばかり意識が向いていましたが、ふと、なぜ昭和18年の記録を昭和35年になってから芝祐泰氏がまとめられたのか、17年もたってからわざわざ書かれた理由が気になり始めました。

記録の末尾には「昭和十八年四月二十七日草稿 昭和三十五年八月十四日改訂 芝祐泰」と記されています。8月14日といえば、お盆、終戦記念日の前日です。そして、戦死されたり空襲で亡くなった方々の17回忌を迎えるころでもあります。

失われた人、去っていった人のことを思い返しながら、皆がまだ一同に会して行えた、戦時中最後であったかもしれない「輪台・青海波」を中心とした大規模な舞楽会のことを、きちんと記録に書き記しておきたい、後世に残さねばならない、と、祐泰氏は筆をとられたのではないか、私にはそう思えるのです。

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昭和17年発行の多忠龍著『雅楽』、山井基清著『撃物総譜』と、芝祐泰著の昭和18年の舞楽会の記録を手掛かりに、戦中の雅楽の動向や楽師の方々の思いを探ってみました。
戦争を中心とした時代は、あまり語られてこなかった時代かもしれませんし、そのお話を、直接どなたかから語っていただくような機会も、もう今では望めなくなってしまいました。
せめて、書き残してくださった書物や記録を読み、今の雅楽に至る道を知っておくことも、後世の私たちにとって必要なことではないかと、改めて感じました。

追記:多忠龍著『雅楽』は、昭和49年(1974)12月、著者の三十周年祭施行の際に、孫の多忠完氏、多忠麿氏により復刻版が発行されています。

参考:
・山井基清編『撃物総譜』(『楽道撰書』第一巻)楽道撰書刊行会、1942年
・多忠龍著『雅楽』六興商会出版部、1942年
・芝祐泰著『舞楽 輪台青海波 之記』1943年稿、1960年改訂
・小野亮哉監修、東儀信太郎代表執筆者『雅楽事典』音楽之友社、1989年
・平出久雄編「日本雅楽相承系譜(楽家編)」『日本音楽大事典』平凡社、1989年
・多忠麿編『雅楽のデザイン』小学館、1990年
・山井清雄著「日本の音楽界に山井家が貢献したこと」東儀俊美・芝祐靖監修『楽家類聚』東京書籍、2006年
・塚原康子著『明治国家と雅楽』有志舎、2009年
・寺内直子著『雅楽の<近代>と<現代>』岩波書店、2010年

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