MFJ福島公演 飯舘村に捧げられた曲のこと

ミュージック・フロム・ジャパン音楽祭・福島が、今年も感慨深く終了しました。
演奏曲の中には、 飯舘村のために作曲された曲が4曲ありましたが、中でも、飯舘村の4~6年小学生が「ときよめぐれ(までいのロンド)」(伊武トーマ作詞、山根明季子作曲)を踊り付きで元気に歌ってくれたのがとても良かった! 歌いやすい歌詞と旋律のこの歌が、村の子供たちにずっと歌い継がれていったら素敵だなあと思います。
私の演奏させていただいた曲の中で、今回最も心にかかっていたのは、「ひとであるあかしとして」(若松丈太郎作詞、佐々木冬彦作曲)をどう歌うか、でした。
「ひとであるために わたしたちは 山菜を採りたい 家畜を育てたい 田畑を耕したい みんなで 村で暮らしたい・・・」
会場には、飯舘村の方々、福島のみなさんが沢山聴きに来てくださっています。重い歌詞が暗くならないように、村での豊かな自然に生きる喜びが溢れてくるように、当たり前の希望を素直に歌いたい。歌手でもない私だからこそ、素朴でも思いを込めて語るように歌えば、心に届けられるはず。と、自分を励まし、排簫と箜篌の素朴で自然な音に助けられながら歌わせていただきました。
自分にできることは、できる限りの思いを寄せて歌うこと。何かを聴いてくださった皆さんの心に届けられたでしょうか。
今回「歌」に挑戦してわかったのは、篳篥を吹くことと歌うことは、蘆舌を震わせるか声帯を震わせるかの違いはあっても、息の使い方音程の取り方その他、ほとんど同じ感覚だ、ということ。 歌詞こそなくても、篳篥を吹く時には歌を歌っていたんだと、今更ながら気づきました。
もう一曲、私が演奏させていただいたのは「飯舘の四季・四句」(黛まどか作句、嶋津武仁作曲)。歌と石や木を打つ音と篳篥や大篳篥だけで、春の水音、夏の賑やかな祭り、しっとりと想いを深める秋、そして冬の厳しさを、印象的にまとめた曲。楽音より自然の音に近い篳篥のシンプルな音の持つ、色合いや強烈さが生かされていて、改めて篳篥の面白さに気づかせてくれます。
昨年、ニューヨークやワシントンでこの曲を演奏させていただいた時には、飯舘村の菅野村長も同行されていて、かつての飯舘の生活や祭りの話など、いろいろお話しくださいました。豊かな自然と人々の親密な生活の話には、羨ましさを感じるほどで、今そこに行けないことが、なんとも悔しく思えます。
演奏会では伶楽舎の舞楽や、雅楽器を用いた増本伎共子作曲「嬉遊楽」も演奏され、また午前中は飯舘村の小学生向け雅楽教室もあって、盛り沢山でした。
そのお話はまた今度。
福島民友ニュースhttp://www.minyu-net.com/news/news/0211/news5.html
朝日新聞デジタル マイタウン福島http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001302100002

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